インマヌ・エル(神はわれらとともに)

ストレスで神経を患って数年間通院し続け、ある夏にとうとう職場を離れて療養することになったことがあります。
主治医に実家に帰ることも促され、最初の一週間ほどは老父母の許で厄介になりました。

実家は大神宮のそばにあります。
私は、そこを庭のようにして育ったためか、子供のころから神宮や神社に参拝すると心が澄むように感じていました。
(西行法師の歌う「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」でしょうか)
しかし、実家療養の際に参拝した時にはそのような思いを持つことはできませんでした。
ぼんやりとした意識の中で、やはりおぼろげとした失意と共に、私は大神宮を後にせざるを得ませんでした。

その後で、実家周辺を散策していた時に、キリスト教会の看板が偶然に目に止まりました。
カトリックの教会があるのは前から知っていましたが、それはプロテスタントのものでした。
その教会が存在していることをその時まで全く知りませんでした。
日曜日の朝の本礼拝の前に、求道者向けの小礼拝が行なわれていることを知って、それに参加してみようと思いました。
そしてそこで、牧師先生が語られた説教の中に次のような一節がありました。

「主はあなたと共におられる。
 主はあなたと共に嘆いておられる。
 主はあなたと共に苦しんでおられる。」


この言葉を、私は驚きを持って聞きました。
出勤はおろか日常生活を送る気力すら失い、社会的に役に立たない状態に陥ってしまった私と共にいていただける方がおられるのか?
決して誰にも分からないであろう自分の苦しみを分かっていただけ、共に嘆いてくださる方がおられるのか?

そのことをもっと知りたくなって、続いて行なわれる本礼拝に参加しました。

本礼拝の中で、私の好きな曲であるJ.S.バッハのカンタータ140番「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」(BWV140)で歌われるコラールの、54年版の賛美歌147番が歌われました。

「起きよ、夜は明けぬ、夜警(ものみ)らは叫べり、起きよ、エルサレム。
 おとめら、目覚めよ、新郎(はなむこ)はきませり、めさめて迎えよ。
 さかえの主は くだりましぬ、ハレルヤ。
 ともしびかかげて いざむかえまつれ」

歌いながら、私はあふれる涙を止めることができませんでした。
「虚無の闇の中に浸っていた自分自身の心の中に、光は既に与えられていたんだ」
朦朧とした意識の中で、そのようなものを確かに感じました。

・・・・・

人は、心の中に水を豊かに持てる森のようなところでは、信心や畏敬の念を支えにして生きていくことができるのでしょう。
でも、心が乾く砂漠の様なところでは、それらでは支えきることができず、信仰、つまり「仰いで信じる確かなもの」が必要になるのではないでしょうか。

上述のことがあってから5ヶ月後の、まだキリスト者になる前の時の私の実感です。

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