司式祈祷

先の復活祭で 受洗して約3年が経ちました



昨年の4月 どういうわけか教会の役員に選出され

5週間に1回の割合で 礼拝司式の担当が回ってきます



礼拝説教の少し前に 司式者による祈祷があります

祈祷書による成文祈祷ではなく 自由祈祷です



祈りに含める内容に関するある程度のガイドラインはありますが

公同の祈りを考えるのはなかなかに骨が折れ

また 会衆の前で神さまに祈るのは とても緊張します

毎回 祈祷の内容の備えと心の整えに 1週間ほどかかります



でも これもまた恵みと思いつつ 



兄弟姉妹とともに 祈りを合わせています

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この記事へのコメント

2012年04月16日 20:54
先日は御訪問頂きましてありがとうございました。
久しく御無沙汰したままでしたのに、コメントを頂き嬉しくありがたく存じます。
実はコメントを頂くのと前後して、ぎっくり腰になり(笑)ここ一週間あまり、ベッドの上で身動きできない状態のまま過ごしました。寝がえりを打っても激痛!!このまま再起不能になるかと思うほど、重症ではありましたが、おかげさまで昨日あたりから痛みが軽減し、今日は、何も捕まらず一人で歩けるようになりました。遅ればせながら、頂きましたコメントへのお返事を書かせていただきましたので、またお寄り下さい。

>礼拝説教の少し前に 司式者による祈祷があります

これ、私も経験があります。司式だけならともかく、祈祷となると本当に緊張しますよね。
実は、私1年ほど前に思うところあってカトリック教会に通っています。(というよりもともとカトリックだったのですが)カトリックのミサでは聖書朗読することはあっても、祈祷はありません。
ゆっくりと流れるミサの時間は、懐かしい場所に戻ってきたという思いにさせてくれます。
2012年04月16日 21:46
aostaさん。コメントありがとうございます。
ぎっくり腰ですか。それは大変でしたね。どうぞお大事になさって下さい。
拙コメントへのお返事拝読しました。ありがとうございます。ダンテの『神曲』には、地獄の最下層のコキュートスの第四の層のジュデッカで、ユダはブルータスとカシウスと共にルチフェルに噛み砕かれ続けていると書かれているそうですが、どうなのだろうなぁ、などと考えています(@_@)
司式祈祷は、他の役員も実は「しんどい」と漏らしているようですが^^; プロテスタントにおける「万人祭司」の実践の一つかな、などと捉えて、信仰の成長の機会を与えられているとも感じています。
私はカソリックのミサの経験は残念ながらないのですが、リタージカル型のものは会衆参加度がより高いのかな、などと想像しています。
キリストに枝としてつながるのに、自分が安らげる形を持つことができるのもまた恵みですね。
2012年04月16日 23:31
おへんじありがとうございました。

>カトリックのミサでは聖書朗読することはあっても、祈祷はありません。

ちょっと誤解がある書き方だったかしらと思います。老婆心かもしれませんが、聖書はミサの途中で第一朗読と第二朗読という形で信徒が読みます。ミサにおける一般信徒の祈祷はありません。主の祈り、信仰告白は同じですが、主の祈りはグレゴリアンの旋律で歌われます。この主の祈り、私が幼いころ叩き込まれたものは「天にまします、われらの父よ・・・」という完全文語体のものでしたので、未だに口語体の祈りに馴染めません。ミサも60年代後半まではラテン語でした。
意味はもちろん判りませんでしたが、ラテン語の美しく荘厳な響きを今でも懐かしく思い出します。
過去に遡って2000年近く、若干の変化はあったにしても、ほとんど同じ形で行われてきたミサに、今現在も繋がっていることに大きな感慨を覚えます。

そうそう、イースターのミサでは突然第二朗読を依頼され大いに慌てましたが、これも恵みと考え、壇上に立つことが出来ました事は大きな喜びでした。
2012年04月17日 21:32
>aostaさん
ふと思ったのですが、司式祈祷は確かに祈りのことばを口にしますが、考えてみれば礼拝・ミサの全ては祈りであり信仰告白なのですよねぇ。
そして私は、日常生活における一挙手一投足の全てがそれらになればなぁなどと思ったりしていますが、なかなか…(@_@;)
主の祈りは私の教会でも文語体で唱えています。聖書は新共同訳ですが、聖句でも十戒などは文語体で聞き覚えているものがけっこうありますね。
神曲におけるユダの件、もう少し考えてみました。神曲はヨハネの黙示録20:1あたりのことなのではと思いますが、そこにはユダのことは書かれていません。
またその後(同7節)、サタンは牢から解放されて神の軍に決戦を挑みますが、最後の裁きを受け火と硫黄の池に投げ込まれます。
もしユダがサタンに苦しめられていたとしても、最後には開放されるのではないか。そしてそれらのすべては神のご計画なののかも知れない。そんな風に考えました。
(まぁ、聖書に書かれていないことを自分の頭で考えてもしかたがないのですが^^;)

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