音楽と祈りと信仰と

カラオケが流行り始めたのは高校生の時でした。遠足や修学旅行の
バスの中で聞くのが、ガイドさんのお話から級友達のシャウトに
替わりました。(苦笑)

当時から私は合唱部に所属していました。カラオケで歌いたい歌が
これといってなかったのですが、マイクが回ってきた時には歌わ
ざるを得ないので、自分が気持ちをこめて歌える歌を探しました。

そして見つけたのは安全地帯の「ワインレッドの心」でした。
カラオケが出ていなかった頃は、バスの中でアカペラで歌うことに
なりました。(笑)

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大学時代にバッハの音楽と出会い、社会人になってからアマチュア
コーラスのメンバーとしてそれを演奏するようになりました。最初は
水を得た魚のようにメリスマを歌うことを楽しんでいました。

そして10年ほど前にその団体でドイツに演奏旅行に出かけ、聖トーマス
教会の礼拝で、トマナ・コアに代わって聖歌隊席でカンタータを演奏
する機会を得ました(トマナ・コアは冬休みを取った)。その時、バッハの
カンタータなどの教会音楽はこういう場のために作曲されたのだという
ことを体感したように思います。

その後、別の団体でヘンデルの「メサイア」などをコーラスと共に
ソリストとして教会の礼拝堂で演奏する機会を得て、おっかな
びっくりながらそれを務めています。

そのころから、キリストに関する音楽を演奏する際に壁の様なものを
感じ始めました。それは自分がその歌っている内容を演じることに対する
疲れのようなものでした。気持ちを込めて心の底から歌えていないという
ことに対する抵抗感でした。

ヘンデルのメサイアやバッハの教会音楽を演奏していて感じるのは、
それらが「祈り」であるということです。

祈る気持ちは自分にもありました。しかし、何に対して祈るのかと
いうことについて対象が明確ではなく、その祈りを聞き届けてくれて
いると信じられるものは漠然としていました。それに対して、それらの
曲で歌われている内容は明確でした。

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祈ることは、人の力ではどうにもできないことに直面した時などに
誰でも自然に行なっていることのように思います。例えば食事の
前後に手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」というのも、
ある意味「感謝の祈りである」と言えるのではないでしょうか。

そして信仰とは、祈りをささげる相手を明確に持ち、祈りが聞き
届けられていることを信じるということなのだと私は思うのです。

特定の宗教を信仰していなくても、祈ることは誰にでも許されている
ように、キリストについて書かれた音楽を誰でも自由に楽しむことが
できます。

山に登るルートがいくつかあるように、音楽を深く知るための方法は
いくつでもあるのでしょう。作曲者が信じていたものを信じることに
よって初めて、その音楽を通して他の人やこの世のものではない
なにかと共有できるものはあるのかも知れません。

音楽は時代や立場を超えて作曲者、演奏者、聴衆などの人をつなぎ、
祈りの音楽は、それを感じることの出来る人を静かに真理へと導く
ように感じます。思想的な対立を超えて、祈りと音楽は存在する。
私はそのように感じています。

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