私が人である根拠(『ヒトはいつ人になるのか』)



 痛みや感情や意志を振り返り、それを自分のものとして規定し自分に帰するのは、「私」以外のものへの区別が視野に入るときである。そのとき初めて、「私」、自己、自我は意味を獲得する。他者との関係が意識に上るとき、つまり「私」の意識のうちに他者が現れ、同時に他者の視線が「私」の意識を貫くとき、その時「自己」という限界が現れる。もっともわかりやすいのは、「私」という言葉が使えるようになるのは「あなた」や「彼」といった二人称や三人称の代名詞とセットで理解する時であることに注目することだろう。

(同書第216ページ(第二部 人格の現実、 第三章 人格は他者との関係である、
 第二節 他者に出会う)より)

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sesuna 氏のブログの中の「ヒトはヒトになる」という部分に触発され
http://d.hatena.ne.jp/sesuna/20080701/1214843380

同書を読みました(かなり斜め読みですが)

結論めいた部分を特定することはとても難しかったのですが

前述の引用が 一応もっとも参考になるのかなぁと思いました



同書は題名どおりに 生物学的な「ヒト」という種の個体が

人間という重さを持つ「人」個人になるのはいつかということについて

言及されています



私が感じたのは ヒトと他の動物とを分けるものは

自我 つまり自分のことを考える自分の存在であり

そしてそれは他者の存在を通じて

初めて確認できるということでした



自分が「自分は自我を持った『人』である」と認識するためには

自分同様の 自分以外の存在による認識や承認が欠かせないということで

自己存在というものは なんとも不安定なものなのだなぁ というのが

現時点での感想です



「私が人である根拠」は 第二者・第三者が私のことを

人と認識していると私自身が知覚しているということになるのでしょう

sesuna 氏が既に言われているるところの

「結局は自分がどう認識するか、第三者がどう認識するのかに依存する」
http://d.hatena.ne.jp/sesuna/20080630/1214796144


というのが結論にもっとも近いのでしょうか



さてこの考えを sesuna 氏が構築しておられる

「Project Roche Limit」の世界に当てはめた場合

FS(フリースタイル)であるカシス嬢(?)は

グングニルの乗員が母星に地表調査に降りた際に初めて

「自分」というものを意識したことになるのでしょうか?

(カシス嬢は「ヒト種」ではないので あてはまらないのかもしれませんが…)

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